なぜ、今殉教者なの
 平和な時代に、なぜ殉教者を引き合いに出してくるのかという質問を受けることがあります。 しかし、実のところ、特別に激しい迫害のない時代でも、殉教者とは大いに関係があるということについて知る必要があると思います。 というのは、「殉教者」という言葉は、新約聖書の語源であるギリシャ語では、「あかし人」をも意味するからです。 使徒の働き1章8節に出てくる「あかし人」は「殉教者」と同じ言葉です。聖霊が臨む時、その人は殉教者となると言うのです。 そのことから分かることは、殉教者とは、主を生涯あかしし続ける人のことです。主を否まずに生き通す人なのです。
 次に、私たちがしようとしていることは、主のために殉教した私たちの先輩たちを顕彰しようとしているのではありません。 私たちは、あくまでも彼らをあがめることではなく、彼らの生き様を通して、主に忠実に生きた彼らのスピリットを継承することです。 そのことを通して主をあがめることです。
 前号にも書きましたが、今日多くのクリスチャンがお互いに裁きあっている現実を見て、本当に心が痛みます。 クリスチャン同士がお互いにさばきあうことによって喜んでいるのは悪魔であり、悪魔の思うつぼにはまっていることに気付かずにいるのです。 クリスチャンの願いは、主を喜ばせることであり、主の栄光が現れることです。 ですから、たとい主のために立派な死に方をした人であろうと、その人をあがめることは、決して主の御心ではありません。 殉教者によって示された主への一途な信仰スピリットを継承することによって、主の栄光が現わされることこそ私たちの願いです。
 また、ある人たちは、私たちのしていることを誤解して、このような運動は自殺を奨励するものであると言っておりました。 私たちは、生涯を通して主を忠実にあかし通した人々のスピリットを継承することであって、自殺を奨励しているわけではありません。 激しい迫害はなくても、家族、友人、知人のちょっとした反対に遭うと、とかく自己保身的生き方から主を否んでしまいかねない私たちが、それでいいのかと主から問われていることを知り、この運動を進めているわけです。
 殉教者が主のあかし人である限り、それはいつの時代でも重要なことであると思います。 あの激しい迫害の時代だけにしか殉教者はでないのではなく、いつの時代でも主のあかし人としての殉教者は必要でしょう。 福音をあかしすることが、直ちに殉教を意味する激しい戦いの中で、主のあかし人となるべき命令が与えられ、喜んであかし人となっていった人々の足跡に従っていきたいと思います。 それが私たちの願いなのです。
キリスト教殉教者記念研修会館 献堂式 尾山令仁氏講演