「穴吊りの図」タンネル「イエズス会殉教者」=プラハ1675年刊
穴吊りの図
 穴吊りは、この時代最も過酷な拷問と言われた。その内容は、1メートルほどの穴の中に逆さに吊す、というものであったが、そのやり方は残酷極まりない。
 吊す際、体をぐるぐる巻きにして内蔵が下がらないようにする。すると頭に血が集まるので、こめかみに小さな穴を開け血を抜く、などそう簡単に死なないようにし、さらに穴の中に汚物を入れ、地上で騒がしい音を立て、精神を苛んだ。
(出典「日本キリシタン殉教史」片山弥吉・著 時事通信社)
「火あぶり」
火あぶり
 火あぶりは、柱にくくりつけ、周囲に薪を置いて火をつける。苦しみを長引かせ、信仰を捨てさせるため、薪は柱から離してとろ火で焼いた。
 背教したければ逃げ出せるよう、くくる縄は弱く縛ってあったという。
 他にも両手両足を引っ張って、回転させながらあぶることもあった。その際、口から煙が出たという。
 また簑踊りという火刑は、手足を縛り簑を着せ、火をつける、と言うものであった。
 苦しみもだえる様が踊っているように見えることから、この名が付いたのである。
(出典「日本キリシタン殉教史」片山弥吉・著 時事通信社)
「悪魔の拷問」トリゴー「日本殉教録」=1623年、ミュンヘン刊=所収
悪魔の拷問
天草と有馬地方の殉教者
 1614年有馬で32人がこの拷問を受けた。
八角の太い棒に両脚をはさみ、一方の端を綱でくくり、他の端を三人の兵が力一ぱい締め付け、一人がその棒の上に乗って押し付ける。
この悪魔の拷問の苦しみはひどいものであった。
キリシタンの中にはそれを忍び得ず弱気をみせたので釈放されたものもある。
この拷問をうけたのは32人であった。二回も三回も繰り返された人もいた。転宗しないものは、いよいよひどく責められ、棒が折れたのもある。
結局、最後まで拷問に耐え、真の神にして永遠の価値であるデウスの証人(殉教者)となったのは20人になる。
  (出典「日本キリシタン殉教史」片山弥吉・著 時事通信社)
「元和の大殉教図」(ローマ市Chiesa del Gesu=イエズス教会=にある)
元和の大殉教図
 元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう)とは、江戸時代初期の元和8年8月5日(1622年9月10日)、長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑された事件である。  徳川幕府は豊臣秀吉の禁教令を引き継いでキリスト教を禁止し、司祭や修道士、同宿(伝道士)を捕らえては牢に入れていた。 死亡者のうち33名は大村領鈴田(大村市)、他の者は長崎(長崎市)の牢獄に数年間つながれていたが、全員の処刑命令が出たことを受け、浦上を経由して西坂に連行され、そこで処刑されることになった。  処刑されたのは神父や修道士、老若男女の信徒であった。女性や幼い子供が多いのは、宣教師をかくまった信徒の一家全員を処刑したからであった。 その内訳は、火刑された者が25名であった。その中にはイエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の司祭9人と修道士数名が含まれていた。 イエズス会員カルロ・スピノラ神父もそのうちの1人であり、彼は数学と科学に精通し、慶長17年(1612年)に長崎で日本初の月食の科学的観察を行って緯度を測定したことで知られている。また、残る30人は斬首となった。 斬首された者の中には、日本人だけでなくスピノラをかくまったことで逮捕・処刑されていたポルトガル人ドミンゴス・ジョルジの夫人・イサベラと彼の忘れ形見である4歳のイグナシオもいた。  なお、この処刑の様子を見ていた修道士で、かつてセミナリヨで西洋絵画を学んでいた者が様子をスケッチし、マカオで完成させた油絵がローマに送られた。これは「元和大殉教図」として知られ、イエズス会本部であったローマのジェズ教会(Chiesa del Gesu)に保管され、今に伝えられている。 (出典「日本キリシタン殉教史」片山弥吉・著 時事通信社)
「仙台広瀬川で他の八人の日本人信徒と共に殉教したカルウァリヨ神父」 カルディム「日本血染の花束」所収
カルウァリヨ神父
 寛永元年(1624年)2月18日、仙台広瀬川大橋の下の川岸に、深さが60センチの水牢が造られ、カルウァリヨ神父と八名のキリシタンたちが、寒中素裸にされて水牢に座らされ、別々の棒杭に縛りつけられました。
 役人は「転宗しろ。転宗しろ。」と責めたのですが、カルウァリヨ神父は信者を励ます言葉を語り続けたのです。
 信徒は皆最後まで殉教の力を失わないように祈り続けたと言われています。そして、一人も転宗する者はなく、皆凍死したのです。
 カルウァリヨ神父は、八名の召天を見届けてから息が絶えたそうです。46歳でした。
(出典「日本キリシタン殉教史」片山弥吉・著 時事通信社)
「アダム荒川が受けた拷問」トリゴー「日本殉教録」
アダム荒川が受けた拷問
  アダム荒川は島原半島有馬の荒川(現有馬吉川)の出身であり、1641年1月31日、徳川家康のキリシタン禁令が出たころは天草の志岐の教会でガルシア・ガルセス神父(イエズス会)に仕えていた。七十余歳の老人ながら、教会の雑務や炊事などの仕事にまめまめしく働き、信徒指導の手伝いもしていた。
  宣教師追放令が出され、天草を治めた唐津城主寺沢広高は富岡城番代川村四郎右衛門に志岐にいたガルセス神父を長崎に去らせるように命じた。ガルセス神父が去っていく時に志岐の教会の世話をアダム荒川に頼んだ。アダム荒川は幼児に洗礼を授けたり、病人を見舞ったりして司祭がいない中、献身的に教会に奉仕し信徒にも大きな影響を与えていた。
  しかしそれに追い討ちをかけるように寺沢広高は川村四郎左衛門に、天草領内の全てのキリシタンに信仰を棄てさせるよう厳しく命じた。そこで川村は影響力のあったアダム荒川が信仰を棄てれば他の者も信仰を棄てるであろうと考え、アダムを捕らえることを決定する。
 1614年3月21日、アダム荒川は富岡城に連れてこられ、番代の川村四郎右衛門より信仰を棄てるように説得されたが、アダム荒川は「人間にとって肉体以上に大切なのは魂でございます。私が心からまことの神と信じ大切にしているデウスさまに背くことは出来ません。」と答えた。アダム荒川はいっこうに信仰を棄てる気配がなかったので、川村はアダムを拷問にかけることにした。
 裸で町中を引き回した後、二本の柱を立てて横木をかけ、この横木に両肘を、二本の柱に両足を縛りつけ9日間もさらし者にした。その間に、天を仰いで祈る姿にキリシタン以外の人も感動した。しかし寺沢らの目的はアダムの死ではなく転宗であり、裸のままで野ざらしにしておくと死んでしまうので、夜になると柱から降ろされ小屋に入れられた。
 九日たっても信仰を棄てないのでアダムは柱から降ろされ一軒家に幽閉されることとなった。川村はこの幽閉生活によってアダムの意思が弱るのではないかと期待したからである。
 しかしアダムはその幽閉生活の中でよりいっそうキリストに祈り黙想していくことになる。
 棄教しないアダム荒川の処分を川村はどうしようかと模索するために、自分の主君寺沢のいる唐津に行ったが、その時寺沢は江戸にいたので主だった家老たちと話し合い、信仰を棄てないのなら斬首してもよいと決定を下した。
 刑場に着いたアダム荒川は最後に祈りを捧げ、近くにいた役人に「天地万物の創り主であるデウスこそ、まことの神である。あなたの子にこれを教えるためにキリストを学ばせなさい。あなたもキリシタンになられるのがよい。」と言い、静かに首を差し出した。
 しかし役人の手が狂い刀は肩にくいこんだ。アダムはそれでも「イエス、マリア」のみ名を呼び求め、2回目の刀を待った。
(出典「日本キリシタン殉教史」片山弥吉・著 時事通信社)